「醜美舎」の名称について

醜美舎の名称について概略ご説明いたします。

〇全てのものは相反する要素で組成されている、という哲理の基、美⇔醜の関係。

〇美には種類・段階がある、という事実。即ち、
●多くの人に賛同・理解される ‟肯定美”
●一部の人の賛同・理解しかない ‟否定美”
しかし、この否定はnothingとなり得ます。そこで、飛躍して哲理の基 ‟否定” を ‟醜” に。
即ち、‟醜美” と。

ものの思考に ‟起・承・転・結” の方程式は周知の通り。
加えて、物理学者の言に ‟大胆なの発想なくば新しい組成は存在しない” と。
そこで、本会はこの物理学者の考察を最大限に活用し、 ‟醜” を ‟心の中” という意に転換。
即ち、 ‟醜美” を ‟心の中に感じたものを美として表わす” の意に解釈。
オーバーに例えるならば、ピカソの表現であり、広重の富士山の表現というようなことになりましょうか。(この事はクセと個性の問題へと関連)。
これら諸々に ‟舎” の ‟仮の宿” の意を組み合わせて『醜美舎』とし、仮の宿からの各々の飛翔をも、
希いました。

又、ある人のざくろの絵に添えられた寸言に、”鬼でさえ笑えば愛嬌のあるものだ”というのがあります。ざくろの弾けた部分から覗く赤い種。その形を見て、”鬼の笑い”と捉えることのできるその心情と感性。あわよくば、このような柔軟な情感も増量したいものと…。

本会は、●古典学習の必然性、●クセと個性の考察、●作品の「品」の問題等々も見え隠れしながら柱として提起しています。